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神仏判然令(1868)

慶応4年(1868)の3月28日、維新政府は神仏混淆を禁止し、寺院と神社を分離するように命じる神仏判然令を出しました。

神仏混淆は元々、神道を信仰する一般大衆に仏教を広めるために仏教の末端の伝道師たちが「神様も仏様も実は同じもの」などと言って進めたのが始まりであるともいわれます。

元々八百万の神様を信仰していた日本人はそこに少々別系統の神様達が加わっても霊験さえあれば比較的容易に受け入れたことは想像に難くありません。例えば病気になった人のところに薬草の知識が豊富な山伏が訪れ、薬を調合した上で不動護摩などをおこなったりして顕著な回復が見られれば、それは「お不動さまのお陰だ」ということになって仏様への信仰が生まれたでしょうが、だからといって以前から信仰している地域の神様への礼拝を怠ることはなかったと思います。

また雷や台風で折れてしまった御神木をそういった山伏たちが観音や地蔵として刻み、神霊の宿った仏像として信仰されるようになるといったケースもあったであろうといわれています。

日本人にとって「宗教」とは西洋の「religion」とはかなり異なった性格を持っています。

このような雰囲気を更に進めるきっかけになったのが八幡や稲荷などの信仰でした。奈良東大寺の大仏を建造する際、八幡神を信仰する帰化人の一派が技術協力をし、このため、八幡神は仏教側から「八幡大菩薩」の号を受け、代わりに八幡神も東大寺の鎮守に入りました。現在でも東大寺の境内にはちゃんといくつかの神社が祭られています。また弘法大師の時代に東寺のために稲荷山の山の木を切ったところ祟りがあったため、東寺側が稲荷の神にお詫びをし、その後真言宗と稲荷信仰とは一緒に全国に広まったともいわれています。

平安時代の末期頃には仏教界と神道界も共存のための妥協を行うようになっていました。お正月を神道中心にお祭りする代わりにお盆は仏教中心にお祭りするようになり、子供が生まれた時は神社にお参りして、人が亡くなった時は坊さんが来てお経をあげる、などといった形で両者は宗教的行事を折半していきます。春分・秋分もお寺でお彼岸の行事をして神社では社日の行事をします。

鎌倉時代頃は禅宗・浄土系諸宗の積極的な活動もあり仏教側がかなり優位に立ち、神は仏が仮にあらわれたものとする「本地垂迹説」なども唱えられましたが南北朝時代に吉田兼倶が登場して吉田神道を興し、神道側も理論武装して仏の本体は神であるという「逆垂迹説」を唱える人も出ました。その後江戸時代になると林羅山や吉川惟足などにより儒教の要素も加えた思想なども加わって複雑な様相を呈してきます。

しかしキリスト教対策から江戸幕府は全ての人が必ずどこかのお寺の檀家にならなければならないという制度を推進し、これが宗教界を沈滞させてしまいました。元々はキリスト教も「たくさんある神様のひとつ」として受け入れていた日本人でしたが桃山時代その勢力がかなり強くなってくると本願寺や比叡山などと同様弾圧を受けるに至ります。そしてキリスト教徒が厳しすぎる年貢の取立てに反発した農民たちと一緒に起こした島原の乱にショックを受けた幕府は、その後キリスト教に対して厳しい禁令を敷きます。そしてキリスト教徒を締め出すために国民を全員仏教徒にしてしまおうという政策を取ったわけですが、色々な問題を引き起こします。

お寺側では国家的に優位性が認められたことで安住してしまい、布教活動が停滞して活力を失うことになります。神社側でもお寺に従属するような立場になって苦渋を味わいます。元々はお寺にはその境内を鎮護する神社があり神社にはその神を護る神護寺があったわけですが、江戸時代も中期をすぎると、僧と神官が兼任になり、神事は下級の僧が行う、となどといったことが普通になっていきました。そして人々が強制的にお寺に所属しなければならないということから、お寺の僧の中には権勢を笠に着てかなり横暴なことをする者も出てきました。

しかし、明治維新になって幕府の治世が終わると、維新政府は新しい国には新しい宗教が必要であると考え、新しく国教を定めようとしました。この時西洋の国にならって、日本でもキリスト教を国教にしようという意見も出たらしいのですが、多数派を占めるにはいたらず「国家神道」が構築されていくことになります。そして手始めに、まずお寺と神社を明確に分離しようという意図で出たのが、この神仏判然令なのですが、これは政府の意図を越えて破壊的広がりを見せ、全国的な廃仏毀釈運動を起こしてしまいます。

それまで大きな顔をしていた僧たちに反感を覚えていた民衆が神仏判然令を「寺を廃し仏像は破壊せよ」と拡大解釈して寺を襲撃するという事態が全国各地で生まれました。最近タミールで起きたようなことが日本全国で起きたわけです。この時期にずいぶん多くの貴重な仏像が或いは破壊されあるいは海外に流出してしまいました

明治政府も民衆の過熱に驚き、寺を廃せよなどとは言ってない、という布告を出したりして対応しますが、沈静化にはかなりの時間を要しました。

現在寺と神社が隣り合ってその間に何とも変な形の境界線の塀が築かれてあったりするところがあるのはこの神仏判然令の後遺症です。またお寺のような山門があって中に神社があるところ、神社で梵鐘を持っているところなども残っていますが、これは神社とお寺が一体になっていたものの、お寺側が廃された結果です。

「国家神道」は仏教側にも深刻な打撃を与えましたが、神道側にもかなりの打撃を与えています。政府が欲しかったのは政府の政策に忠実になってくれる臣民ですから、別に神社を保護したわけではなく、それをベースにひとつの新たな宗教を創ろうとしたようなものですから多様な信仰はむしろ邪魔でした。

政府はひとつの村に神社は一つだけにせよ、という布告を出し、更に神社が持っている土地で、直接祭祀に関わりのないものは全て手放すように命じたりして、このため多くの神社が廃止統合され、神社の鳥居が境内からずいぶん離れた場所に建っているという事態が数多く引き起こします。更には全国の神社に調査官が派遣されて多数の神社で御祭神の書き換えが行われました。このため現在では本来の御祭神が何であったのか分からなくなってしまった神社も多くあります。また国に忠実でないとみなされた宗派は大本教などのように厳しい弾圧を受けたりもしています。

仏教・神道が本来の宗教としての姿に復帰できるのは戦後の宗教の自由化を待たなければなりませんでした。


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