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東大の初代総長は誰だ?

昨日Yahoo!のニュース速報に「初代東大総長は誤解/会津若松出身の山川健次郎」というタイトルが流れていました。何か最近の研究で東大の創設時頃の歴史が塗り替えられているのかなと思ってクリックしてみたら、単に福島では白虎隊出身の山川健次郎が東大の初代総長と信じている人が多い、という河北新報の記事が流されただけのことでした。

山川は実際には東大の総長が選挙で選ばれるようになってからの最初の総長なのだそうです。それでは誰が初代なのか?と思って検索エンジンで探してみたのですが、これがさっぱり分からない。困っていた時にふと「東大のサイトに何か書いてないか?」と思って行ったら、ちゃんと東大歴代総長というページがありました(^^; 灯台下暗しですね(シャレではない)。

さて東大のサイトによれば初期の頃の総長というのはこうなっています。

 ■東京大学明治10年4月 法理文3学部綜理 加藤弘之医学部綜理明   池田謙斎明治14年7月 総理       加藤弘之明治19年1月 総理(事務取扱)  外山正一

 ■帝国大学明治19年3月 総長(事務取扱)  外山正一明治19年3月 総長       渡邊洪基明治23年5月 総長       加藤弘之明治26年3月 総長       濱尾新明治30年11月 総長       外山正一

 ■東京帝国大学明治31年5月 総長       菊池大麓明治34年6月 総長       山川健次郎明治38年12月 総長(兼)     松井直吉明治38年12月 総長       濱尾新大正元年8月 総長(事務取扱)  櫻井錠二大正2年5月 総長       山川健次郎大正9年9月 総長       古在由直昭和3年12月 総長       小野塚喜平次

さて、前出Yahoo!の記事では東大の総長が選挙で選ばれるようになったのは、大正7年からとのことでした。ということは、上記の東大のサイトと照合すると、その時総長をしていた山川がそのまま選挙で選ばれたということなのでしょう。山川は実際には明治34〜38年にも総長を務めており、東大のトップが「総長」という名前になってから、事務取扱を除いて数えると、6代目および9代目の総長ということになります。

■山川健次郎について山川健次郎(1854-1931)は会津藩家老職の三男で、会津藩校日新館でフランス語などを学んだ後、白虎隊に入りますが、まだ年少であった故に戦闘に参加することを許されず藩命により新潟へ脱出。ここで漢学を学び、そこから元長州藩の奥平謙介を紹介されてその弟子となります。

明治4年に北海道開拓使で技術者養成のため何人かの書生をアメリカに留学させることになった時にそのメンバーに選ばれるのですが、この留学は途中で明治政府の財政が逼迫したため学費が出なくなってしまいます。しかし現地で知り合いのアメリカ人が「帰国後、日本のために頑張るなら」という条件付きで学費を出してくれたため彼は無事にエ一ル大学付属シェフィ−ルド科学校を卒業、明治8年帰国しました。

帰国後は東京開成学校教授補、東京大学理学部教授補を経て、明治12年7月に日本人として最初の物理学教授となります。明治10年12月には日本で初めてアーク灯の点灯実験をおこない(有名な工部大学校のエアトンによる実験は明治11年3月)、明治15年には白熱灯の点灯、明治29年にはX線の実験をするなど、世界の最先端の技術を学生達に呈示し続けました。そして明治34年には東大の第6代総長となり、特に政府の過剰な干渉を退け大学の自治と独立を守った人と評価されているようです。

その後、東大の教授と兼任で、九州帝大総長、京都帝大総長なども歴任。明治専門学校(現九州工業大学)の創設などにも貢献してその初代総長も務めています。後に貴族議員議員・男爵。

彼は会津藩の出身ということで明治初期には特に戊辰戦争で官軍と対立した会津に対する風当たりは強かったのですが「薩長は勤王倒幕・会津は勤王佐幕」であったとして、天皇のもとに集結する心は同じだったのだと主張。その後の維新時代における会津藩の評価にも大きな影響を与えました。

嘉永7年(1854)閏7月17日生。昭和6年(1931)6月26日没。享年76歳。

■初代総長・渡邉洪基

さて、結局東大の初代総長は渡邉洪基(こうき,1847-1901)でした。彼は福井県武生の出身で藩校の立教館を経て江戸の慶應義塾で学び、外務省記録局長などを勤め岩倉具視や伊藤博文らの信頼を得ます。学習院次長、東京府知事などののち、明治19年に帝国大学初代総長となっています。退任後はオーストラリア大使なども勤めています。この人のことについてはこの程度しか分かりません。

■最初の総長・外山正一

東大のサイトの資料をそのまま読むと、東京大学が帝国大学になってトップが総理から総長という名前に変更になった時、それまで総理(事務取扱)を務めていた外山正一がそのまま総長(事務取扱)ということになっているようです。そういう意味では「最初の総長」は外山正一というべきなのかも知れません。

外山正一は「そとやましょういち」ではなく「とやままさかず」と読みます。嘉永元年(1848)9月27日江戸の生まれ。御家人の長男で『蕃書調所』(後述)で英学を修め、16歳で開成所(同じく後述)教授方になります。ミシガン大学の化学科に遊学の後、開成学校(同じく後述)の教授に復帰し、東大発足時には唯一人の日本人教授として、英語・心理学・社会学・哲学などを教えました。明治21年に学位令に基づく最初の文学博士。明治22年の帝国憲法発布の際の「万歳(ばんざい)」という唱和を考案したのも外山であると言われています。

明治19年に3ヶ月ほど総理事務取扱・総長事務取扱も務めますが、明治30年には正規の総長にもなっています。後に文部大臣も務めました。明治33年3月8日没。享年53歳。

■初代総理・加藤弘之

さて外山の前に総理を務めたのが加藤弘之(1836-1916)です。この人は東京大学が発足した時に法学部・理学部・文学部の3学部綜理を務め、後に大学全体の長としての総理が置かれることになった時に、その初代総理となったものです。

天保7年に但馬国(兵庫県)の出石藩の藩士の長男に生まれ、江戸で佐久間象山らに学び、24歳で蕃書調所(後述)手伝となり洋書翻訳の仕事をします。元治元年に開成所教授に任じられ、明治以降は大学大丞・文部大丞・外務大丞を歴任。明治10年に開成学校綜理となって、開成学校が東京大学に再編されるとそのまま東京大学総理となります。その後東京大学が帝国大学になってからも明治23〜26年に第2代総長を務めました。退官後は元老院・貴族院議員・枢密顧問官などを務めています。男爵。

加藤の思想の中で最も有名なのが「天賦人権説」で、近代的な西洋思想に基づいて全ての人の平等を唱え、明治維新になって、士農工商は四民平等になったのにまだ被差別部落の人たちが低い社会的扱いのままになっているのはおかしいとする、部落解放論を展開しました。彼の思想は明治中期の自由民権運動の理論的な柱ともなるわけですが、実際に自由民権運動の波が高まると、さすがにその過激性には馴染めず、初期の頃の著書を自ら絶版にするなどしています。

大正5年2月9日没。享年80歳。葬儀は故人の意志により無宗教で行われました。

■東大の歴史を遡る

さてここまでの中でもたびたび出てきていたのですが、東大の前身は開成学校。そのまた前身は蕃書調所というものです。ここでこの流れを確認しておきましょう。

安永3年(1774)に「解体新書」が刊行されて以来、国内では蘭学を修める者がどんどん増えていました。そこで文化8年(1811)に幕府天文台の高橋景保(後述)が建議して天文台内に「蛮書和解御用掛(ばんしょわげごようがかり)」が置かれ、洋書の収集と翻訳の作業を行うこととなりました。これが基本的には東京大学のルーツと考えられます。

やがて嘉永6年(1853)にペリーの来航があり開国を強要されると、幕府はもっと西洋の事情や技術を知らなければならないと痛感。筆頭老中・阿部正弘の直々の指示により、蛮書和解御用掛を天文台から独立させ、安政2年(1855)5月に、「洋学所」を設置。天文台や紅葉山文庫から多数の洋書を移管するとともに、オランダ語だけでなく、英語・フランス語・ドイツ語などの技術書を多数収集して研究に当たらせました。

阿部はこれからの政治家は西洋の事情も分かっていなければならないとして、閣僚たちにもこの洋学所の講義を聴かせたりしています。しかし当時はペリーの巨大な軍艦を直接見ていない多くの人たちは、外国を「南蛮」などと呼んで蔑視していた時代。この阿部の先進的な態度には反発もありました。そこで彼はこれを翌年「蛮書調所(ばんしょしらべどころ)」と改名しましたが、中身は何も変えませんでした。そしてここで洋書翻訳の作業にあたったり、ここの講義を聴いたりした人たちの中から、明治初期の日本の技術革新を担う人材が輩出することになるのです。この蛮書調所の初代頭取は古賀謹一郎です。

この蛮書調所は文久2年(1862)5月に洋書調所、翌年に開成所と改名され、明治政府に引き継がれて明治元年に「開成学校」となりました。

一方で安政5年(1858)5月に伊東玄朴らにより設立されていた種痘所が、文久元年10月に西洋医学所と改名されていましたが、これも開成所とともに明治政府に引き継がれこちらは横浜軍陣病院改め大病院と合併して明治2年に「医学校」となります。

これが明治2年12月に合せて「大学」と呼ばれることになり、開成学校を大学南校、医学校を大学東校と呼びます。このあとの改名の過程は複雑なので、流れだけを見ておきましょう。

 開成学校→大学南校(1869)→南校(1871)→第一大学区第一番中学(1872)→開成学校(1873)→東京開成学校(1874)→東京大学(1877)

 医学校→大学東校(1869)→東校(1871)→第一大学区医学校(1872)→東京医学校(1874)→東京大学(1877)

こうして明治10年(1877)に東京大学が発足する訳です。その後はご存じの通り明治19年に工部大学校(明治3年に設立された工部寮をルーツとする)と合併して帝国大学となった後、明治30年に京都帝国大学の設置に伴い東京帝国大学と改名。そして戦後、東京大学と「昔の名前」に戻ったわけです。

ということで今度は東大前史の部分を少し掘り下げてみましょう。

■蛮書調所初代頭取・古賀謹一郎

実はこの人のことはよく分かりませんでした。1816生,1884没のようです。

「蕃談」という著書がありますがこれは富山出身の廻船の船員次郎吉が、漂流してハワイからロシア経由で1843年に帰国したのを、事情聴取して書き上げたもので、当時海外事情を知るのに非常に役だったとされています。(ジョン万次郎の帰国は1851年)

1853年にペリー(6月)に続いて来航したロシアのプチャーチン(7月)の応接掛などもしています。このことを書いたものが「西使日記」「西使続記」のようです。また河井継之助は古賀謹一郎が蛮書調所とは別に個人で運営していた私塾に学んでいます。また慶応2年に幕府が設置した製鉄所の奉行並(副官)にもなっています。

■蛮書和解御用掛支配・高橋景保

高橋家は天文方の家系です。父の高橋至時は伊能忠敬の師としても知られています。高橋景保(1785-1829)も父の跡を継いで天文方となり、伊能忠敬の日本地図作製に協力していました。一方で洋学の本格的な導入のため蛮書和解御用掛の設置を幕府に働きかけ、実現にこぎ着けます。

後にシーボルトが来日すると、様々な情報交換を行い、彼が持っていた世界地図など多数の文献と交換に、伊能忠敬が作った日本地図のコピーを渡します。が、これがとんでもないことになってしまいました。

伊能忠敬の日本地図は基本的には機密書類ですので、当然国外への持ち出しは禁止です。しかし日本は当時、出航する船の積荷は調べないことになっていましたので、別に問題ないだろうということで渡したのですが、シーボルトを乗せた船が出航した直後、暴風雨のために湾内に押し戻されてしまいました。

すると日本の役人はこれを「再入港した」とみなして積荷を調査。高橋が渡した日本地図が見つかり、高橋は罪を問われて拘束され獄中で死亡。息子たちも遠島になってしまいました。世に言う「シーボルト事件」です。なおシーボルトは高橋からもらった地図を別途コピーしていたので、それを元に帰国後、日本を紹介する本を刊行しました。高橋の犠牲は無駄にならなかったのです。


(2004-03-22)

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