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正力松太郎が讀賣新聞を買い取る(1924)

この人は面白い人です。いづれホロスコープを分析してみたいところです。

明治18年(1885)4月11日、富山県の旧家に生まれ、東京帝大に入りますが、柔道に夢中になり卒業後の進路に困ります。かろうじて官庁として一番下のクラスになる警視庁に入りここで主として保安関係で活動。特高(特別高等警察)などにも関わっているようです。警務部長として関東大震災後の混乱や、共産主義者の活動の弾圧、また米騒動の鎮圧などに関わりました。

しかし大正12年(1923)12月27日の虎ノ門事件(難波大助による摂政裕仁親王−後の昭和天皇−の狙撃事件)を防げなかった責任を取り警察を辞職(事実上解任)。その直後の大正13年2月25日、東京市長・後藤新平の仲介で、当時経営危機に陥っていた讀賣新聞を買い取って、社長に就任しました。

このときパニックになったのは記者たち。直前まで警察の幹部をしていた人が社長になるということで、それに反発して大量の記者が辞職しています。しかし彼がその後やったのは、別にお上の御用新聞への道ではなく、徹底的な新聞の大衆化でした。

彼はいわゆる「三面記事」に力を入れ、センセーショナルな見出しを踊らせて、新聞の購読者をどんどん増やしていきました。これはまさに江戸時代の瓦版屋の手法です。これにより讀賣は朝日・毎日と肩を並べる大新聞になりました。

昭和9年(1934)には彼自身も取締役に名を連ねた日本で最初のプロ野球球団、大日本東京野球倶楽部(現巨人)を創設、アメリカの大リーグのチームとの試合で大いに湧かせます。昭和19年(1944)には貴族院議員になっています。

戦後は戦争の報道などに関して責任を問われてA級戦犯とされ、巣鴨刑務所に収監。昭和22年に釈放され、同26年に追放解除になり、讀賣新聞に復帰しました。

その後大阪讀賣新聞を発行して、この新聞を全国紙として展開しはじめ、あわせて1953年には日本で最初の民間テレビ局である、日本テレビを創設しました。このテレビの事業は追放解除になる前から準備を進めていたものともいいます。そして彼がこの民放という事業形態を運営するために考え出したのが街頭テレビでした。

民放はNHKと違ってスポンサーの広告料で運営されます。しかし当時はテレビ受像機は平均的なサラリーマンの月収の1年分くらいもする高価なものでした。当然普及台数も少なく、そこに広告を流しても効果はそんなに出ないと思われます。彼が注目していたのはプロレス中継でした。

街頭に誰でも自由に見れる(金を取らないのが素晴らしい!これでないと、商売はうまくいかない)テレビを設置し、そこでプロレス中継をやって、そこにCMを流す。絶大な効果があるわけです。

1954年には讀賣新聞社主という地位に就任して経営の第一線からは退き、翌年衆議院議員選挙で当選。このあと彼は国の原子力行政の推進に力を入れ、1956年原子力委員会の初代委員長、そして科学技術庁が創設されるとその初代長官に就任。

この人は一人で7〜8人分(柔道選手・警察官僚・大衆新聞社の経営・プロ野球の父・民放の父・プロレスブーム生みの親・国会議員・原子力の父)の人生を生きたかのようです。

プロ野球初代コミッショナーでもあります。柔道やプロ野球に彼の名前を冠した大会・賞があります。

昭和44年(1969)10月9日死去。享年84歳。


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