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行基が大僧正に任命(745)

天平17年(745)1月21日、聖武天皇は行基を日本で最初の「大僧正」に任命しました。

行基(ぎょうき)は一般には「行基菩薩」(ぎょうきぼさつ)の名前で親しまれています。役行者(えんのぎょうじゃ)・弘法大師(こうぼうだいし)それに聖徳太子を加えた4人というのは日本の仏教界初期のビッグ4であり、あらゆる人から最も尊敬されている存在でしょう。そしてこの4人が見つけたとされる温泉は日本の古い温泉の総数の恐らく9割以上を占めているのではないかと思います。

(この人たちより古い温泉になると、もう大国主命とか少彦名命とかいった、神様の世界になります)

さて、聖武天皇は深く仏教に帰依し、奈良の都に東大寺、全国に国分寺を作らせて、仏教の普及に務めたことはよく知られています。この東大寺には例の「奈良の大仏」が納められました。しかしこういった事業は必ずしもスムーズにいった訳ではありません。

この時点で既に奈良にはいくつもの有力寺院が存在していました。そんな中で新たに巨大な寺をつくり、そこに巨大な仏像を作るというのは、これらの寺院と真っ向から対立することでもありました。

そのため、大仏の建築にあたっては度々妨害が発生し、せっかく骨組みを作っても焼かれてしまったりして、工事は遅々として進みませんでした。

聖武天皇が行基を大僧正に任命したのはそんな中での出来事でした。

行基は行基菩薩とあがめられ、民衆に絶大な人気を持っていました。聖武天皇は彼を国で一番偉い僧であると公式に認定するとともに、行基にこの大仏建造の指揮を依頼したのです。

すると、行基様がなさるのなら、と多くの人々がこの大事業に協力。やっとのことで大仏の鋳造は進行します。

この奈良の大仏の建築成功には、行基菩薩の指揮とともに、欠くべからざるあと2つの要素がありました。

ひとつは天平21年東北で大量の金が産出され、これが献上されたことです。大仏は大量の金を使用しますが、その素材がすみやかに調達できたことは、たいへんな幸運でした。

もうひとつは八幡神を頂く九州の宇佐一族の協力です。彼らは溶かした金を非常に薄く均一に型に流し込むという、現代でもかなり困難な、高度な技術を持っていました。

この奈良の大仏鋳造の時に、仏教側と八幡神側とで、一種の妥協が成立し、宇佐一族がこの鋳造に全面的に協力し、八幡神が国家守護の神として認定されるとともに、八幡は八幡大菩薩として仏教の仏としてもあがめられることになります。ここに日本の神仏習合の最初の1ページが記されるのです。


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