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古事記編纂の詔(711)

和銅4年(711年)9月18日、元明天皇は太朝臣安万侶(おおのあすみやすまろ)に古事記編纂の詔(みことのり)を出しました。

古事記は日本の正史である日本書紀(これは俗称。正式には「日本紀」)に対して皇室の内部資料的な色彩で作られた記録であるとも言われています。そのため、この文書が実際に世に出てきたのはかなり後世になってからです。

その内容は大きく3部に別れており

  上巻:神話の巻。天地創造から神武天皇の父とされる鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)までの記事を記す。天の岩戸伝説、須佐之男命のヤマタノオロチ退治、因幡の白兎の話、海幸彦・山幸彦の話などが含まれる。

  中巻:伝説の巻。天皇家の始祖・神武天皇や最初に国を治めた天皇である崇神天皇から、歴史学的に存在が確認されている最古の天皇である応神天皇までの記事を記す。ヤマトタケルや神功皇后の活躍が含まれる。

  下巻:歴史の巻。応神天皇の子の仁徳天皇から推古天皇までの記事を記す。その主要部分はいわゆる倭の五王の時代の歴史である。

となっています。この古事記はあくまでプライベートなものであったという説は、この編纂のことが日本書紀や続日本紀にも記されていないことから来ています。この和銅4年9月18日というのも古事記自身に記載されている日付です。

この文書の序文によれば、古事記は、元々天武天皇が、諸説入り乱れている歴史を整理する必要を感じ稗田阿礼という者に天皇の系図や旧辞などを広く研究させたのが発端です。これが元明天皇の時代になってやっとまとめることができる状態まで到達したので、安万侶に命じて、稗田阿礼が分析した内容をひとつの文章としてまとめさせたのが、この古事記です。

古事記をその少し後にまとめられた日本書紀と比較した時、かなり編集方針が違うことが分かります。

一番明確なのは、日本書紀の方は正規の記録であるが故に、異説のあるものは全部拾って「一書にいう」と並べて書いてあったり「これでは矛盾するのだが実際どうだったか分からないので後世の人の判断にまかせてここはそのまま書いておく」などといった文章が出てくるなど、科学的な態度で信憑性の高い書き方をしてあります。

それに対して古事記の方はもっと自由な雰囲気で書かれており幾つも説のあるようなところも、話のつながりのよい一説だけを採用して、まるで物語のような書き方をしています。

稗田阿礼については古事記の中の「誦み習わせた」というところを語り部のように暗誦させたと解釈する人もいますが、日本は聖徳太子の時代にはもう漢字をしっかり使っており、暗誦させる必要など全くありません。ですから読んで内容を分析させたと解釈するべきでしょう。

この稗田阿礼の正体についても種々の説が出ているようです。

猿女の君の一族の者ではないかという柳田国男の説もありますが、梅原猛氏がいうように猿女の君の者なら、自分の先祖神とされる天宇受売命(あめのうずめのみこと)にストリップをさせるというのも確かに変な気がします。

その梅原氏は稗田阿礼というのは実は藤原不比等のペンネームなのではないかといっています。藤原不比等は養老4年(720)に62歳で亡くなっていますから、天武天皇が命令を出した時に28歳だったというのは年齢がピタリと一致しており、なかなか魅力的な説です。


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