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もく星号事件(1952)

昭和27年(1952)4月9日午前8時頃、日本航空のマーチン202型機「もく星号」が伊豆大島の三原山に激突し、乗員乗客37名が全員死亡しました。

この事件は、当時日本を管理していた米軍が事故に関する資料の一切の開示を拒否。当時相模灘で行われていた米軍の演習に参加していた米軍機との間で何らかの出来事があったことが推測されましたが、何しろ何のデータも無かったことから原因は不明のままになっています。

戦後日本は、軍事技術の一切の開発保有を禁止され、航空技術に関しても軍事技術の一部ということで民間の飛行機の保有・飛行も全て禁止されていました。その中で、日本航空はアメリカの航空会社ノースウェストと提携するという方法で1951年10月25日から国内の航空サービスを再開します。しかし日本人は飛行機に関われないということから、機体もパイロットもノースウェストからの借り物。また当然管制システムも全てアメリカが管理していました。この戦後の航空再開の第一号機が実は「もく星」号で、その後DC-3「金星号」、DC-4「てんおう星号」と投入しています。

当時アメリカは朝鮮戦争を戦っていました。一応1951年3月にアメリカを中心とする連合軍がソウルを奪還し、38度線での睨み合いが続いていましたが、北側の再侵攻はいつでも考えられる状態で、米軍の前線基地である日本ではソウル付近の地形に似た、相模灘付近で盛んに戦闘機のクリティカルな訓練が続けられていました。

もく星号は羽田発大阪経由福岡行きだったのですが、羽田離陸後、管制官から戦闘機の訓練空域を避けるため2000フィート(約600m)という低空で飛行するよう指示されます。しかし当日は強い霧が出ており視界不良。今のような精密な計器飛行でもありません。そして伊豆大島付近で「何か」が起きて飛行機は操縦困難な状態になり、三原山(標高673m)に激突してしまったということのようです。

この事件については、とにかく全てが軍事機密のベールで覆われており、上記の中にも若干の推測が含まれていますが、とにかくこの事件が国民の間に、米軍に対する強い反感を引きおこしたことは間違いありません。サンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本が独立を回復するのはこの事件の19日後、1952年4月28日のことでした。(日本人パイロット誕生は翌年8月)


(2004-04-09)

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