心への旅(18)境界について

←↑→

今町のあちこちで「七五三の予約受付中」というチラシを見掛けます。写真屋
さん、貸衣装屋さん、またレストランなどが七五三を迎える子供たちとその親
を待ち受けています。

七五三、成人式、卒業式、入学式、..... 人は人生において様々な通過儀礼を
受けています。しかし今日の日本ほど、その通過儀礼が曖昧になってしまって
いる状態は少ないでしょう。成人式なども出席するのは出席資格のある人の内
4〜5分の1ほどにすぎないようです。それは何故か。それはそういった儀式
の殆どが本来の意味を失い形骸化してしまっているからに他なりません。

人が成長していく上では、時々緩やかな上昇ではなく、断絶のあるステップア
ップを必要とすることがあります。そのステップアップを演出するのが通過儀
礼の役割です。この為たとえば昔の武士は15歳くらいで元服という儀式を行
なって新しい名前を与え、明確に新しい海図に従った生き方をする決意を促し
たのです。

現代の日本においてかろうじてその形骸化を免れている儀式といえば結婚式で
しょうが、これも都会では結婚式場の問題や金がかかりすぎる問題などで、入
籍だけ済ませて結婚生活に入り、実際に結婚してから数カ月後に披露宴を開く、
という夫婦が増えたりしてやはり形骸化の傾向はあります。

このようにして徹底的に通過儀礼が消滅していく中、やはり心理的には儀礼を
求める心があるため、その補償作用として、夢の中に通過儀礼が現れることも
あります。歯が抜けたり生え変わったりする夢、死と再生の夢などはその例と
考えることができます。実際にある種の原始的信仰を守っている部族などでは、
成人の通過儀礼として抜歯や割礼などを行なうところがあります。これらは死
の代替行為と考えられます。

ところで、こういった社会制度的な儀式が消えていく中で、個人的な儀式を行
なう人がいます。例えばある作家は原稿に向う前に必ずお気に入りのグラスで
お気に入りの洋酒を飲まないと「気分が乗ってこない」とか、ある力士は勢い
よくどっさりの塩を撒かないと闘争心が湧いて来ないとか、あるサッカー選手
はゴールを決めた後、祈りのポーズをしないと集中力を持続できないとか。

こういった例はけっこうよく見ます。河合隼雄氏はこれらの行為が他の行為で
代替できない性質のものであることから、これらは「儀式」に違いないと判断
します。そして、その「儀式」の役割は、本人の持つエネルギーの放出の水路
付けをするとともに、その大量のエネルギーの流れによって自分自身が破壊さ
れない為の、防御線を張ることであると考えます。

これは言い替えれば、このような「儀式」は、俗の世界から聖の世界に入る為
の行為であるといえます。つまりこういった儀式を行なうことにより人は神の
領域に入り込み、そこで爆発的なパワーが出てくるのです。

ところが現代において、社会的に儀式が失われているということは、一般の人
にとって、そのような聖なる体験をする機会が失われているということです。

かつて邪馬壹国の卑弥呼のようなパワーのある巫女が儀式を執り行った場合、
その場にいる多くの人が聖的体験をしていたのではないでしょうか。しかし現
代において、例えば入学式で聖的体験をする人はいないでしょう。

今日は、俗世界から聖世界への道が非常に狭くなっている時代でもあります。

しかしここに抜け道があるのではないか、というのが河合隼雄氏の指摘すると
ころです。河合氏が指摘する抜け道は「遊び」経由の「聖」への道です。

分かりやすい所で言えば、お祭りというものがあります。お祭りは儀式という
よりも遊びです。しかしお祭りに参加して自己を燃焼させた時、人はすがすが
しい気分を味わうことができます。これは形骸化した儀式では得ることのでき
なかった聖的な爽快感です。

音楽をしたことのある人でしたら、ステージに立って合唱をしたりロックの演
奏をしたりした後に感じる爽快感というものを御存知でしょう。これも遊び経
由で聖の世界に至る方法です。箱庭療法や遊戯療法などの心理療法もある意味
で、この経路によるエネルギー解放を目指していると言えます。

今日「占い」というものの置かれている立場はある意味で面白いものです。こ
れを非常に神聖視する人達がいる一方で、これを遊びととらえる人もいます。
しかし、私はどちらのとらえかたも正しいと思っています。

なぜなら、どちらのとらえかたも、占いが聖世界への扉を開ける行為であると
いうところに通じているからです。
←↑→


(C)copyright ffortune.net 1995-2016 produced by ffortune and Lumi.
お問い合わせはこちらから