心への旅(19)布置と共時性

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さて、この連載も残りわずかとなってきました。

今回取り上げるのは、ユング心理学の中でも、最もセンセーショナルであり、
一部の人達から熱狂的に支持されるとともに一部の人達から激しい非難を受け
ている問題です。

それは、布置と共時性の問題です。

布置とはどういうことか、簡単に説明しましょう。

これは河合隼雄氏がTVの講座であげた例ですが、ある家では毎朝6時半ころ
に朝刊が来るとします。また6時半頃、隣の家のご主人が出勤するのに車のエ
ンジンを入れるとします。すると、この家ではこういう会話が成立します。

「おーい、隣の家のご主人がお出掛けだから、新聞来てるかどうか見てくれ」

ここで面白いのは、隣の家の主人が出掛けるという行為と、家に新聞が来ると
いうこととは、何の因果関係もないということです。何の因果関係もないにも
関わらず、それが同時に起きるということから、あたかも関連があるかのよう
な言い方がなされるのです。

このように、因果関係のない複数の事柄が殆ど必ずといっていいほど同時に又
は連続して起きる現象を「布置(constellation)」といいます。

このような現象はけっこうあるのではないかというわけです。つまりこの世界
は、全てが因果関係の糸でつながれている訳ではないのではないか。これがユ
ングの考えた重大なポイントです。そして、これはまさに近代科学思想の限界
を示唆しているのでした。

こういう考え方をいち早く支持したのは、素粒子論を研究していた物理学者た
ちでした。彼等は今世紀最大の人類の発見ともいえる不確定性原理によって、
この世界が因果律だけでは制しきれず、本質的に確率的にしか記述し得ない物
理現象が存在することを知ってしまい同じように近代科学思想の終焉を感じと
っていたのです。

非因果的な同時・連続現象、確率的な物体の振舞い、そして相対性理論が示す
非絶対的な時間、また不完全性定理の示す人間の演繹能力の本質的限界、これ
らは全て、ルネッサンス以来の素朴すぎる科学研究の指導原理の限界を示し、
新たな指導原理の必要性を説いているのです。その道はまだまだ模索の段階と
いえるのでしょうが。

ということで、話が広大になってしまった所で突然足元に舞い戻って、もうひ
とつ面倒な話である、共時性について語っておきましょう。これは布置以上に
一部の人たちの反発を招きそうな考えです。

それはこのようにしておきます。

何気なくテレビを見ていたら、ドラマの中で登場人物がタイヤキを食べていた。
あぁ、おいしそうだな、と思っていたら友達がタイヤキを土産に遊びに来た。

子供が捨て猫を拾ってきて、かんかんがくがく言い争った結果、結局飼うこと
にしてしまった。しょうがないなぁ、などと言いながらNIFTYにアクセス
していつものフォーラムに行くと「○○さん、猫の手も借りたいような忙しさ
ですね」というオープニングが飛び込んで来た。

こういう「なんてタイミングがいい」とか、逆に「なんて間が悪い」といった
経験は、誰でも少なからずしているのではないかと思います。ここで私がタイ
ヤキをテレビで見たのと、友人がタイヤキを買って来たことは何の因果関係も
ないはずですが、非常に都合よく起きた訳です。

このように関係ないはずの所で、都合よく(或いは都合悪く)密接に関連した
事象が起きることを共時性といいます。

共時性は、布置のような現象を説明する為の、因果律にならぶ宇宙の法則と考
えることもできます。

この世界に「共時性」という法則を導入することは、特に心の世界では大きな
意味を持つ場合があります。

たとえば、ある人はたまたま同僚と酒を飲んで帰った晩に、家に強盗が入って
いて、家族が大怪我をしたとします。

その場合、この世を因果律だけで考えてしまうと、まるで「自分が飲んで帰っ
たばかりに家族が大怪我をした」と考えてしまい、罪の意識に悩んでしまうも
のです。しかし飲んで帰ったことと強盗が入ったことは、実際は因果の糸で結
ばれているのではなく、単なる布置にすぎません。この人の心の悩みを解きほ
ぐす為には、共時性の原理からこの事件を見直してみる必要があります。する
と、「飲んで帰った為に」などという表面的な理由に隠れて見えていなかった、
もっと本質的な、心の動きが明らかになり、罪の意識を持ってしまった本当の
理由が浮び上がってくる可能性もあります。
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