全国66ヶ国お寺巡り99(29)伊豫

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耕三寺を出て瀬戸田港へ行き、松山行きのフェリーに乗ります。到着したの はもう夕方。そのまま市電に乗って道後温泉へ。今日はここで泊まります。
温泉でゆっくりと手足を伸ばし、よくよく筋肉をもみほぐし、ぐっすりと 寝ます。

3月16日(火)。今日最初に訪れるのはこの道後温泉の東の端にある熊野山虚空 蔵院石手寺です。四国八十八ヶ所の51番札所。真言宗豊山派に所属します。

神亀5年(728)、聖武天皇の勅願に基づき、伊豫大守越智玉純が伽藍を建立。
翌年行基菩薩が薬師如来を刻んで納め、これがご本尊となっています。当初 は安養寺といいました。石手寺という名前に改められたのは衛門三郎のエピ ソードがあったためです。この話については長くなるので後で書きます。

さて、ここは四国八十八ヶ所の中でも有数の広い寺です。かつては寺域に64 坊を数えました。その後戦乱でかなり焼け落ちたものの、現在でも多数の建 物が残されています。

仁王門は国宝。屋根入母屋造り本瓦葺き重層。鎌倉時代の作。中に納められ た仁王像は運慶作です。本堂・三重塔・鐘楼・梵鐘・訶梨帝母天堂・護摩堂・ 石造五重塔も重要文化財に指定されています。

境内には、ミニ八十八ヶ所もあります。本堂と大師堂でお参りさせて頂いた あと、そちらも回りましたが、これがまた大変な行程で、これだけで1時間 程かかってしまいました。四国の霊場にはミニ八十八ヶ所を備えている所が 幾つかありますが、恐らくここのものが最大規模ではないかと思います。

【衛門三郎伝説・改悪版】....ちょっと改悪してみたものです。(95.6発表)

四国47番札所八坂寺の末寺・文殊院得盛寺のある場所に、衛門三郎という 長者が住んでいました。この男は長者ではありましたが強欲でかつ冷酷な 男で土地の人から恐れられていました。

ある時三郎の家に一人の修行僧がやってきて喜捨を乞いました。しかし三 郎は「乞食坊主にやるものなど無い」と言って追い払いました。ところが その僧は翌日も来ます。「何度来ても無いぞ」と言いますが、その僧はそ の翌日、そのまた翌日もやってきます。とうとう8日目、三郎は怒って 「なんてうるさい奴なんだ。いい加減にしろ」と言って罵り、竹ぼうきで 僧をなぐろうとしました。

僧は手にしていた鉢で受け止めますが、鉢は叩かれて8つに割れて飛び散 ったのです。僧はだまって8つの破片を広い集めるとどこかへ行ってしま いました。

ところで衛門三郎には8人の子供がいましたが、このことがあった翌日、 その長男がぽっくり死んでしまいました。突然のことで驚いて悲しみつつ も葬儀の準備をしていると、その翌日には今度は2番目の子が死んでしま います。何とまぁ、不幸が続くものよと思いつつ、一緒に葬儀をとしてい るとその翌日には今度は三番目が死亡。3人とも全然病気らしい病気もし ていなかったので、これは何かの崇りではなどという噂が流れ始めたとこ ろ翌日は今度は四番目が逝ってしまいました。人々が恐れおののいている 内に翌日は五番目。まさか次は自分の番ではと六番目が震えているとその 通り翌日突然心臓が止まってしまいます。怖がって誰も近付かなくなり使 用人もこそこそと逃げ出した屋敷の中で翌日は七番目が死に、呆然自失の 中、とうとう8日目には末っ子も死んで衛門三郎の家は火が消えたように がらんとしてしまいました。

衛門三郎は8日の間、何もするすべがない状態で生きる屍のような日々を 送りましたが、やがて親戚の者が見兼ねて8人の子供の葬儀だけでもきち んとしてやります。初七日が終って8日目、親戚のものも帰ってまた寂し くなった屋敷の中で、ようやく三郎は色々なことを考え始めます。思えば 自分は今まで随分非道なことをして来たのかも知れない。自分が生きる為 とはいえ、ライバルを計略にかけたこともあった。借金を厳しく取り立て て一家心中したものもあった。直接手を下して殺した者もいる。自分の半 生を振り返ってみると、自分は何て罪深い存在なのであろうか。三郎の煩 悶は8の8倍の日々続きました。

その巡る思いの末に、衛門三郎はハッとあの修行僧のことを思いだしまし た。突然のできごとが続いてすっかり忘れておりましたが、考えてみると 息子達の死はあの僧を最後に追い払った日の翌日から始まったのでありま した。もしかすると、あの僧は尊い仏様が人の形に身を変えて、自分に罪 の償いをさせる為にやって来たのであったのかも知れない。折角のチャン スを自分はなんと愚かにも潰してしまったのだろうと思い、もう一度あの 僧に会えないだろうか、と思い立ちます。

そこで三郎は村の人たちや親戚の者たちに、これこれこういった僧を見掛 けたことはないかと尋ねて回ります。誰も知らないと言いますが、8日目 にやっと一人の若者が、それは最近噂に聞く、唐の国に行ってたくさんの お経を持ち帰ったという弘法大師という偉い坊さんではないかと言うのを 聞きました。

そこで衛門三郎はその弘法大師という僧を追って旅に出る決意を固め、四 国中を歩き回るようになります。

衛門三郎の旅は夏も冬も続きました。野にあれば野に伏し、山にあれば木 の根を枕にし、雨に打たれ風に吹かれ、日に照らされては汗を流し雪に降 られては寒さに凍え、渇いては泥水を飲み、飢えては木の実を食べる、厳 しい厳しい旅が続きました。そんな中で三郎の心の中でひとつまたひとつ と心の中にあった過去へのわだかまりのようなものが消えていくのを感じ ていました。

衛門三郎はあちこちで弘法大師の噂を聞きました。ある所では老人を助け、 ある村では井戸を掘って人々を救い、ある所では難産の女を励まし、ある 所では泣いている子供をなぐさめてやる。三郎はその話を聞くうちに、あ の坊さんが弘法大師だったかどうかは分からないが、その偉い坊さんさと いうよりも、心の広く優しい坊さんらしいその弘法大師に、この旅のどこ かで出会って、自分がどうやったら今まで犯してきた罪をつぐなえるのか 教えてもらいたい。またそう思うのでありました。

しかし衛門三郎はなかなか弘法大師に巡り合うことができませんでした。
 彼の旅が始まってから既に8つの夏と8つの冬が過ぎていました。

もう彼の疲労も極限に達していました。それに年でもありました。彼は四 国路の中でも難所の一つである焼山寺への道を歩いていましたが、とうと う途中で倒れてしまい、もう動くことができなくなってしまいました。も はやこれまでか。とうとう自分は罪滅ぼしはできなかった、とそう思った 時、彼の前にあの修行僧が現れたのです。そしてこう告げました。

「衛門三郎よ。そなたの罪業はもはや消滅したぞ。何か来世にのぞみがあ れば申してみよ」と。

それを聞いた三郎は涙を流して喜び、「私は伊豫の国湯築の城主河野家の 一族です。ねがわくば来世は河野の世継ぎに生まれて、国中に善政を施し たい」と頼みました。修行僧は頷くと近くの小石を拾い、「衛門三郎再来」
 と書いて左手に握らせました。三郎は僧を拝みつつ息を引き取りました。
 時に天長8年(831)10月20日のことであったといいます。

修行僧はていねいに三郎を埋葬し、そこに三郎が持っていた杖を立てまし た。するとその杖から根が出て芽が出て、大きな杉の木になったといいま す。ここには今番外札所の杖杉庵(じょうしんあん)が建っています。

そして8年後、道後湯築城主河野息利に長男が生まれましたが、どうした ことか、生まれつき左手を絶対に開きません。心配した両親が今51番札 所になっている安養寺に連れていき、加持祈祷をしてもらったところ、や っと息子は左手を開きましたが、そこから小さな小石が転がり出ました。
 その石を拾い上げてみたところ「衛門三郎再来」と書いてあったとのこと です。

その子供、河野息方は、やがて立派な城主になり、善政を施して、多くの 領民から慕われたのだそうです。このことから、安養寺は石手寺と名前を 改めました。そしてその石は今でも石手寺に大切に保存されています。


昨日の衛門三郎の話の改悪箇所について説明しておきます。この話には元々
8という数字がよく出てくるので、面白がって8の数を水増ししたものです。

8日間僧を追い払った→実際は7日間だそうです。
8日間で8人の子供が死→確かにそうですが1日1人だったかは不明です。
88日間悩んだ   →全くの創作です。
8年間旅した    →嘘です。何年か分かりませんが20回旅したそうです。
旅の途中の様子を色々と書いてますがこれも創作です。
8年後に再生    →数十年後だそうです。河野息方というのが実在の人物 かどうか私には分かりませんが、実在であれば生まれ た年が分かるかも知れません。

どうも失礼しました。 m(_ _)m


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