教派神道

教派神道とは通常は、明治時代に教導職が廃止されて神道の布教ができなくなった時に神道から分かれて独立した宗教として立った13の派を言いますが、ここではもう少し広く捉えて、組織的な布教活動をする神道の系列をいうことにします。まずはこの13派の独立の経緯を年表を繰って見てみますと
明治 8年 教導職についた神官が集まり、神道事務局を設置。
明治 9年 一派の教義を立てて神道修成派と黒住教が独立
明治15年 教導と神官の兼職が禁止され、大成教・神習教・御嶽教・
     出雲大社教・実行教・扶桑教が独立
明治17年 教導が廃止。神道事務局の教導達は「神道」という名の宗派を立てる。
         これが後に神道大教となる。
明治27年 「神道」から神理教独立。
明治29年 禊教独立。
明治33年 金光教独立。
明治41年 天理教独立。

となります。ではこの各々、そしてその後生まれた教派神道の幾つかを見ていきたいと思います。

神道大教
昭和15年までは単に「神道局」と称していました。一応、稲葉正邦の創始ということになります。明治政府主導で作られた機関。造化三神、いざなぎ・いざなみ、天照大神・須佐之男神、歴代の天皇などを祀り、惟神の道を広め、道義の実践を主旨とします。

黒住教
黒住宗忠(1780.11.26-1850.2.25)が教祖とされます。宗忠は1828年の冬至の日、日出の太陽を見た時に天照大神と一体となる神秘体験(天命直授)をし、それから病気治療のまじないや講釈を始めました。幕末には三条実美らに支持され、明治維新後も天照大神信仰を基本にすることから他宗派に比べると比較的順調に公認されましたが、当時は天照大神との合一体験については説くことを禁じられ、道徳修養を中心とした平易な教えを行ないました。慢心で人を見下したり、人の悪事を見て自分の悪心を増すことなどを戒め、他人の姿には自分の心が鏡として映っているということを説きます。現在の信者は約30万人。

神道修成派
新田邦光(1829.12.5-1902.11.25)が創始。邦光は源氏の名家新田一族の末裔で、嘉永元年(1848)頃から宗教活動を開始、明治6年修成講社を設立、明治9年に神道修成派としました。教祖が武家の出身であるため儒教色の強い神道で、人の心は純粋・至善であるとし、その神性の発揮を旨とします。現在の信者は約4万人。

出雲大社(おおやしろ)教
伊勢神宮と並ぶ神道の中心的存在である出雲大社が布教活動をするために設立した一派です。創始者は千家尊福(1845.8.6-1918.1.3)。神道事務局に造化三神と天照大神の他に大国主神も祀るべきだと言って伊勢神宮側と対立、これが独立の原因となったとも言われます。人は「ひ(霊)」「と(止)」であって霊的な存在であり、祖先からの霊の再生更新の過程で心の救い・魂の救いがあるとします。この為「幸魂奇魂守給幸給(さきみたま・くしみたま・まもりたまえ・さきわえたまえ)」と念じ、現身のあるべき姿を実践すべきであると説きます。

扶桑教
発端は天文年間の山岳信仰家長谷川角行に仮託されていますが、創始者は宍野半(1844.9.9-1884.5.13)です。半は薩摩の出身ですが、政府の役人を経て静岡県の浅間神社の神官となり、ほか幾つもの神社の神官を兼務しながら、富士講の結集を進め、明治6年、富士一山講社を設立、明治8年神道事務局・扶桑教会となり、明治15年独立して扶桑教となります。大祖参神(富士仙元大神)を崇拝し、富士山に登って心身を清め、天を拝して神の道を体感するとします。信者数4万人。

実行教
同じく長谷川角行に発端するとされていますが、創始者は柴田花守(1809.5.8-1890.7.11)です。不二道の第10世となり、これを明治11年に実行社に改組、明治15年に神道実行派として独立しました。富士信仰を中核として復古神道的な色彩の教えであるとされます。信者数11万人。

神道大成教
平山省斎(1815.2.19-1890.5.22)が創始。省斎は幕府の外交官として活動しましたが明治維新後は徳川慶喜に従って静岡に移り、塾を開きます。その頃から宗教活動を開始、教導となり氷川神社・日枝神社の神官を歴任、明治12年に大成教会を旗上げ、明治15年に神道大成派として独立しました。大成とは神道の諸派を集めるという意味で、結果的に色々な教会が雑居した一派となりました。信者数6万人。

神習教
芳村正秉(1839.9.19-1915.1.21)が創始。正秉は大中臣氏の末裔で、武士の子。少年期に家を出て各地で儒学・皇学・漢学を学び、尊皇攘夷に身を投じて幕府に追われ、鞍馬山に逃げ込みます。維新後教部省に入りますが神仏合同布教に反対して辞任、神宮司廳に務める傍ら行に励みます。神道が一種の学芸になっていることを憂え、富士山・御獄山などで修行を行ない、明治13年、神習講を結成、明治15年に神習教として独立しました。信者28万人。

御嶽教
木曾の御嶽山(おんたけさん)の信仰をベースにした一派です。江戸時代末期に覚明・普寛らが開いたものを下山応助(生没年月不明!!)が組織化し、明治6年に御嶽教会を設立、当初は平山省斎の大成教と一緒に活動した後、明治15年に御嶽教として独立、それを以て応助は人前から姿を消してしまい、初代管長は平山省斎が務めました。現在、木曾に「山の本部」、奈良に「里の本部」を置き、「おひかり祈祷祭」などを行ない、福祉活動にも力を入れています。信者58万人。

神理教
饒速日命を祖先と頂く巫部家77代目・佐野経彦(1834.2.16-1906.10.6)が創始。経彦は現在の北九州市で生まれ、九州・中国地方を歴遊し、医学を学び、又数々の執筆活動を行ないます。そして明治8年頃から度々霊示を受け、明治10年頃から布教活動に入り、反キリスト教の立場から神道教化を主張し、明治13年に神理教会開設、一時御嶽教の管理下にありますが、明治27年一派独立しました。現在も小倉に本部を置いており、易や五行思想等も取込み、神楽・生け花・お茶を奨励し、まじないや占いも行なっているものの、その基本思想はまだ完全には公開されていないようです。信者30万人。

禊教
井上正鐵(1790.8.4-1849.2.18)が天保年間に興したものです。井上正鐵は水野南北の弟子の一人で、易・卜筮により身を立てますが、神秘体験をした事から神祇伯白川家に入門、許状を得て武州足立郡梅田神明宮で布教活動を始めます。しかし幕府に睨まれ三宅島に配流。島でも教化活動を続けますが、そのまま現地で亡くなります。この後を継いだのが坂田鐵安(1820.12月-1890.3.18)で、彼も幕府から弾圧を受けますが、活動を死守、明治5年に「とほかみ講」の名で宣布が許可されます。明治9年に惟神教会禊社、明治15年に神道禊派となります。ここで鐵安も死去しますが、その後鐵安の息子の安治のもとで明治27年、禊教として独立しました。昭和49年、井上正鐵を祀る井上神社の火災を機に分裂、現在安儀の禊教と安儀の長男の安弘の禊教真派に分かれています。信者は両派合わせて10万人。

金光教
#273でも述べました。金光大神(1814.8.16-1883.10.10)が創始したものです。明治18年に神道金光教会、明治33年に金光教として独立しました。この頃から組織化・教義の明文化が進められ、昭和8〜10年には色々な混乱がありながらも内部の規則改正が行なわれたり財政が明らかにされたりして近代化、管長も選挙で選ばれるようになります。そして戦後にも種々の改革運動が起き、東京に布教センターを作るなど布教活動にも努め、服制も神社式を廃して独自のものにするなど、意欲的活動が続いています。信者43万人。

天理教
中山みき(1798.4.18-1887.2.18)が創始。彼女はごく普通の主婦でしたが、天保9年(1838)年に山伏に祈祷を頼んだとき、加持台の女性の都合がつかなかった為、みきが代理を務めました。このとき彼女は3日間にわたって神懸かり状態になり、「我は元の神、実の神である。この屋敷に因縁あり。この度世界一列を救ける為天下った。みきを神の社にもらい受けたい」と言ったといいます。この神はやがて天理王命と名乗り、安政元年頃からみきは病気直しと安産の助けを主に布教活動を開始します。慶応3年には吉田神道からも公認されますが、明治になってから弾圧を受け、みき自身も何度も留置場に入れられます。そんな中みきも死去しますが、みきの孫の中山眞之亮が明治21年神道天理教会として公認を勝ち取りました。その後も政府・マスコミ一体となった激しい弾圧が続き、明治41年にようやく天理教として独立が認められますが、政府の思想統制のため思うような活動はできませんでした。天理教が本格的活動を始めるのは戦後です。天理教教典が編纂され、積極的な布教活動が行なわれるとともに福祉・医療・教育などにも貢献しています。信者189万人。また天理教は大本教と並ぶ新宗教の源流であり、ほんみち・太道教など多数の新宗教の教祖が天理教から飛び立って行っています。

以上が教派神道13派ですが、その他、有力な教派について簡単に触れます。

丸山教
伊藤六郎兵衛(1829.7.15-1894.3.30)が創始。生家に伝わる「丸山講」を再興するため一派を立てたもの。祖は元禄年間の伊藤録裕とされます。富士講をベースにしており、富士一山講社の宍野半の下で活動した時期もありましたが明治18年神道丸山教会となります。信徒をいろは48組に組織して、東海・関東地区で布教活動を行ないますが当局に弾圧されて教祖死後勢いを失います。三代目の教主伊藤平質が機関誌を発行するなどして建て直し、戦後ようやく宗教法人として晴れて活動できるようになりました。信者1万5千人。

大本教
#273でも述べました。出口なお(1836.12.16-1918.11.6)と上田喜三郎(1871.7.12-1948.1.19,出口王仁三郎)が創始者です。上田喜三郎は種々の修行の後「園部へ行け」との天命を受けて、園部へ行く途中、なおの三女ひさと出会い、綾部に行ってこの二人のビッグな対面が実現します。なおは自分が遭遇した神を理解できる人物として喜三郎を歓迎、両者により大本の基礎になる稲荷講社・金明霊学界が作られます。その後、喜三郎はなおの五女すみと結婚、なおと喜三郎は意見の対立がありながらも教団を率いて行きます。

明治36年、なおは日露戦争の敗戦を予言しますが、これが見事に外れ、喜三郎改め王仁三郎を始め多くの信者が教団を去り、教団はなおの筆先を書く用紙にも事欠く困窮に陥ったといわれます。しかし明治41年王仁三郎は綾部に戻り教団を掌握して大日本修正会と改称、大成教の傘下に入って、積極的な布教活動を行ないます。この為信者もかなり膨れ上がり、大教団に成長、更に皇道大本と改称します。なおが大正7年に亡くなりますが、王仁三郎は新聞社を買取って大々的な広報活動を続けました。

ところが政府はここに来て、その影響力を恐れ、強引な弾圧を開始します。王仁三郎ら幹部を拘引、各地の支部をダイナマイトで破壊するなど、まるで物に憑かれたかのような異常な弾圧でした。敗戦後、王仁三郎は愛善苑の名で教団を再興、老体を押して全国行脚して布教を続けました。彼の死後も教団はすみ、更に王仁三郎とすみの長女直日に受け継がれ、昭和27年には大本の名前に復帰しました。現信者17万人。

生長の家
谷口雅春(1893.11.22-1985.6.17)が創始しました。雅春は兵庫県の生まれで早稲田大学を中退、大阪で紡績会社に務めますが、大本に入信、綾部で求道社としての生活を送ります。しかしやがて大本に対して不信感を抱き(大本弾圧を密かに予感した王仁三郎が大本の命脈を保つ為にわざと外に出したという説もある)、高岡、神戸、住吉村と転々する中、神の声を聞いて覚醒します。そして「生長の家」誌を発刊、ここに文書伝道を主とする新しい宗教が誕生しました。昭和9年には東京で株式会社光明思想普及会を設立、敗戦を経て、昭和21年宗教法人生長の家設立、やがて活動は政治的、右傾化していきます。昭和50年には活動拠点を長崎県に移し、龍宮住吉本宮を建立しました。なお政治活動の方は推薦した参議院議員が比例代表制により落選した後は撤退して宗教活動に専念しています。雅春の思想には神道をベースにして、仏教・キリスト教・フロイト心理学などの要素が入っていると言われます。

PL教団
御木徳一(1871.1.27-1938.7.6)が創始しました。徳一は徳光教の金田徳光の下で教師を務め、その死の直前、「現在の教訓18条に3ヶ条追加して教えを完成する人が出るから、その人の元に行くように」と言われます。が、徳光の死後教団を辞して釣りなどをして過ごしていた徳一に神からその3ヶ条が授かり、後継者とは自分であったと確信します。そして大正14年「御獄教徳光大教会本部」の認可を受け、昭和6年には「扶桑教ひとのみち教団」となります。しかし昭和12年当局から不敬罪に問われ教団は解散させられ、徳一も獄中に長くつながれた為体を壊して死去します。その後教団は終戦まで地下活動をしますが、明治21年、徳一の長男徳近の下でPL(パーフェクト・リバティ)教団として再生、現在に至ります。信者123万人。

まひかり
岡田良一(1901.2.27-1974.6.23,光玉)が創始しました。良一は飛行機・製塩・炭鉱・材木などを扱う実業家でしたが、空襲により全財産を失い、それを契機に救世教に身を置いていました。しかし58歳の時、5日間の昏睡状態の後、「天の時到れるなり。起て、光玉と名乗れ。厳しき世となるべし」という神の声を聞き、中華料理店の2階に33人の信者を集めて、LH陽光子友乃会を設立、昭和37年に世界真光文明教団に改組しました。良一の死後、教団は後継者を巡って分裂、法人として後継の世界真光文明教団は静岡県中伊豆に主晃一大神宮仮主座と主神大神殿を置き、ここを本拠地として信者10万人、信者の大半を継承した崇教真光は飛騨高山の位山(くらいやま)に元主晃大神宮を置き、ここを本拠地として信者50万人。

なお街頭で手かざし祈祷の布教活動をしているのはよく真光と誤解されていますが、あちらは真光とは無関係で、同じ救世教から出た神慈秀明会です。こらちは信者44万人。


上記、各教派神道に関する記述は、主として、次の資料をベースにしました。
 弘文堂「新宗教・教団人物事典」
 学研「古神道の本」
 新人物往来社「よみがえる異端の神々」
 神宮館「生活の中の神事」田島諸介著
 講談社「日本語大辞典」
 三省堂「電子ブック版・大辞林」
 私の今までの読書ノート


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