菅原道真公と天神縁起

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菅原道真公と天神縁起

 

道真公怨霊伝説

まずはよく言われている流れにそって、菅原道真公の怨霊伝説と天神縁起を見てみましょう。

応神天皇の八幡宮と並んで人が神になったとされる神社で大きな勢力を持つのは菅原道真の天満宮(天神様)です。数としては全国14000社ほどで神社数のランキングでは第4位になります。

菅原道真は宇多天皇に重用されました。当時は藤原家に強力な人材がいなかったこともあり、宇多天皇は久しぶりに天皇親政を行ってその片腕として博識の道真をよく使ったのです。

宇多天皇は更に藤原家に政治が牛耳られないようにするためには自分が引退して息子を天皇に立て院として天下に指示した方がよいと考え、寛平9年(897)7月3日、醍醐天皇に譲位します。所がこれが完全に裏目に出てしまいました。

醍醐天皇は何かと口うるさい道真を嫌い、自分と馬の合う藤原時平に傾斜して行きました。そしてついに昌泰4年(901)正月25日、醍醐天皇は道真から右大臣の地位を召し上げ、九州の太宰府へ左遷する詔を出すのです。知らせを聞いて驚いた宇多上皇が宮中に駆けつけますが、門の所で待機していた蔵人頭・藤原菅根が頑として上皇を中にいれず、宇多天皇は裸足のまま呆然と門の外に夜まで立ちつくしていたといいます。

道真は太宰府で半ば軟禁状態のまま失意の日々を送り、延喜3年(903)2月25日この世を去りました。この時道真は遺言をし、自分の遺体を車にのせて牛に引かせ、牛が立ち止まった所に自分を葬ってくれ、と言い残しました。これは味酒安行によって実行され、彼は2年後その墓の所に小さな祠廟を建て、稀代の宰相の霊をなぐさめました。

なお道真が都を去る時自宅の梅の木を眺めてこのような歌を読んでいます。

  東風(こち)吹かば 思いおこせよ 梅の花 主無しとて 春な忘れそ

この梅の木は道真が亡くなると主を慕って九州まで飛んできて、道真の墓の側に移ったといい、これを「飛梅」といいます。その何世代か後の梅の木が今もその地太宰府天満宮に残っています。


さて道真が追われた後、都では異変が相次ぎます。まず道真追放の主役を演じた藤原時平が延喜9年4月に39歳の若さで死去、4年後には右大臣源光も亡くなります。また宇多上皇を皇居に入れなかった藤原菅根も変死。更に延喜23年3月には時平の妹穏子と醍醐天皇の間に生まれた皇太子保明親王が21歳で死去、追い討ちを掛けるように2年後にはその保明親王と時平の娘との間に生まれた幼い新皇太子慶頼王まで亡くなってしまいます。

これを世の人々は道真公が自分を追いやった時平公の縁者に祟っているのだと噂します。醍醐天皇も恐くなって道真を右大臣に戻す詔を出したりしますが、怪異は収まる気配がありません。

そしてとうとう延長8年(930)の6月26日、内裏に落雷があって大納言藤原清貫と右中弁平希世をはじめ何人もの殿上人と女官が雷に撃たれて死亡するという事件が起きます。醍醐天皇はショックで病に倒れ、3ヶ月後この世を去ってしまいました。世の人は道真公は雷神になられたのであろうと口々にいいました。


さてこのような騒ぎの中道真はどんどん神格化されていきます。柳田国男は人が神として祀られる第一の条件はその人がこの世に恨みを抱いて死んで行った場合であると言っていますが、そのまさに典型がここにあります。(柳田国男「人を神に祀る風習」)

味酒安行が祀った小さな祠は延喜19年藤原仲平の命により大きな社殿に作り変えられました。そしてやがて都でも道真公を祀ろうとする動きが出て来ます。

最初天慶5年(942)京都の多治比文子という人が「右近馬場に祠を建てよ」という道真公の託宣を受けますが、庶民にはどうにもならないため、仕方なく自分の家のそばに小さな祠を建ててお祀りします。その5年後今度は近江国比良宮の禰宜の神良種(みわ・よしたね)の子供の太郎丸にやはり同様の託宣があり、その問題の右近馬場に一夜にして松が数千本生えるという奇跡が起きた為、良種は文子とともに北野朝日寺の最珍に協力を求め神殿を建立しました。

ここで永延元年、一条天皇が勅命で道真公を祭るお祭りを行い、これを北野祭と称して、その後この神社は北野天満宮と呼ばれるようになったのです。一条天皇自身寛弘4年(1004)に行幸しています。

道真公・実録

さて、今度は実際の年譜に沿って、この伝説を検証していきましょう。 承和12年 6.25 菅原道真生まれる。
(845) 貞観 4年 道真、文章生の試験に合格。
(862) 貞観12年 道真、方略試に合格して官人としてスタート。
貞観16年 道真、従五位下。兵部少輔、ついで民部少輔。
貞観18年 秋に越前まで大旅行。長男高視生まれる。
元慶元年 式部少輔。ついで文章博士。
(877) 元慶 3年 従五位上。
元慶 7年   加賀権主を兼ねる。
仁和 2年 1.16 式部少輔と文章博士の任を解かれて、讃岐守。
仁和 3年11月 正五位下。
寛平 2年春  讃岐から帰京。
寛平 3年 3. 9 式部少輔。
(891) 3.29 蔵人頭。
4.11 左中弁兼任。
寛平 4年 1月 従四位下。
12月 左京大夫兼任。
寛平 5年 2.16 参議となり、左大弁・式部大輔・春宮亮・勘解由長官兼任。
寛平 6年 8.21 遣唐大使兼任。
9.14 道真、遣唐使の廃止を提唱。同30日に廃止決定。

   この遣唐使に任命されたばかりの道真が遣唐使の廃止を申し    立てるという不思議な行動は、様々な解釈を呼んできました。
   一説によれば道真が邪魔に見えて来た藤原家の画策で、道真    を中国に派遣して政治中枢から遠ざけ、あわよくば途中で船    が沈むことを祈ったというのはよく言われる説です。しかし    道真は廃止された「遣唐使」をその後も長期にわたって肩書    として使用しており、そこから遣唐使廃止は実は前々から決    っていたもので、この任命は単なる名誉職であったとする説    もなかなか捨て難いように思います。

12月 侍従兼任。
寛平 7年 1月 勘解由長官を辞めて近江守兼任。
10.26 中納言。従三位。
11月 春宮権大夫兼任。
寛平 8年 8月 式部大輔を辞めて兼民部卿。
11.26 娘のえん子が入内して女御となる。
寛平 9年 6.19 権大納言・右大将。
(897) 7. 3 醍醐天皇即位。この時道真への権力集中に抗議して源光・藤原 国経・藤原高藤が1年に渡り公務をボイコット。
7.13 道真、正三位となる。
昌泰 2年 2.14 道真、右大臣・右大将となる。
昌泰 3年10.11 三善清行が菅原道真に引退を勧める書簡を送る。曰く。
 (900)    ζ明年は辛酉にして運変革にあたり、2月建卯まさに干戈を動        ζかすべし。貴方は学問の家より出て大臣の位にまで超昇せら        ζる。朝の寵栄、道の光華、吉備真備の外、このような例はな        ζかった。この辺の所で止足を知り、栄分を察し身を退いて後        ζ生を大切にされるがよくないか。

       この書簡については、道真を友情から心配したものという説、        逆に三善こそ道真追い落しの張本人ではという説があるようで        すが、善意に解釈すべきか悪意に解釈すべきか非常に微妙な文        章です。しかし三善は更に11月21日に次のような書簡を天皇に        提出します。曰く。
       ζ明年2月は辛酉革命の期。君臣剋賊の運に当る。天皇は神慮        ζを巡らし、戒厳警衛し邪計や異図を未然に防止されたい。

       これはちょっとひどい。本人が意識したかどうかは別としてこ        れは宇多上皇と親しい道真に注意しろといわんばかりです。

昌泰 4年 1.25 道真追放 (901) 2.22 三善の「革命の勘文」これによって辛酉・甲子革命説によって        改元が行なわれ、これ以降この風習が続く。
延喜元年 3月 藤原時平の妹の穏子醍醐天皇の女御となる。17歳。
延喜 3年 2.25 道真死去。この直後道真の霊が比叡山の尊意の元に現れたとい  (903)    う。道真は帝釈天の許しを得たので帝たちに復讐したいと語る。
11.30 穏子が醍醐天皇の第2皇子崇象(=保明)親王を産む。
延喜 4年 2.10 崇象親王わずか2ヶ月で、兄の克明親王を飛び越して立太子。
同年     豊作祈願の為北野に雷公を祀る。現在の火之御子社である。
延喜 5年 道真を葬った味酒安行が墓所に小さな祠廟を建て、神託により        天満大自在天神と称した。
延喜 6年   ★時平派の中納言定国が40歳で早世。
同年     土佐に流されていた道真の長男高視が呼び戻され復位。一位を        昇進させられる。彼の子孫は菅原家の学問をよく後世に残した。
延喜 8年10. 7 ★宇多天皇を内裏に入れなかった当時の建礼門の番人・蔵人頭の  (908)    藤原菅根が雷火に打たれて死亡。彼はもともと道真に推挙され        て役職についた者であった。
延喜 9年 4. 4 ★時平死す。39歳。この時瀕死の時平の元に道真の霊は蛇とな  (909)    って現れた。三善清行が息子の浄蔵大徳とともに見舞に行くと、        道真は「梵天・帝釈天に訴へ申しによりて裁きを蒙り怨みを報        ぜむとするに尊閣の子息我を降伏せんとす。速やかに副へらる        べし」と言ったとの事。二人が驚いて退出すると時平は死んだ。
       なお、延喜8〜10年は疫病が流行した。
延喜13年 ★源光、狩猟の最中に底無し沼に馬ごと突っ込み死亡。死体も  (913)    見つからなかった。
同年     菅原高視死去。38歳。
延喜17年 三善清行参議になる。
延喜18年 三善清行死去。72歳。
延喜19年   味酒安行が建てた祠を藤原仲平が大きな社殿に作り変えさせる。
延長元年 3.21 ★皇太子保明親王急逝。21歳。この頃から道真の怨霊の崇りと  (923)    の噂が出始める。「天下庶人悲泣せざるはなし。その声雷の如        し。世を挙げて言う、菅帥の霊魂宿怨のなすところなりと」と        いう日本紀略の記事が最初とのこと。
4.20 道真を右大臣に復し、正二位追贈。道真追放の詔を破棄。
4.26 穏子皇后となる。
4.29 保明親王の遺児慶頼王が立太子。2歳。
閏4. 1 「延長」と改元。雨や洪水や疫病を理由にあげているが、道真     のことも頭にあった? 7月 穏子、寛明親王を産む。
延長 3年 6月 ★皇太子慶頼王死去。4歳。
(925) 10.21 寛明親王立太子。3歳。
延長 8年 6.26 ★★日本紀略はこう語る。
 (930)    ζ諸卿、殿上に侍し、各請雨のことを議す。午三刻、愛宕山上        ζより黒雲起つ。急に陰沢あり。俄に雷声大鳴し、清涼殿の坤        ζの第一柱の上に堕つ。霹靂神火あり。殿上に侍るの者、大納        ζ言藤原清貫衣焼け胸裂け夭亡す。年64。また右中弁平希世        ζ顔焼けて臥す。また紫宸殿に登る者、美努忠包、髪焼け死亡        ζす。紀蔭連、腹燔けて悶乱す。安曇宗仁、膝焼けて臥す。        ζ(中略)哭泣の声、禁止するも休まず。これより天皇不予。 9.22 醍醐天皇、寛明親王に譲位。
9.29 ★醍醐上皇剃髪、同日永眠。46歳。
承平元年 7.19 宇多上皇死去。65歳。
(931) 承平 6年   ★時平の長男保忠死す。47歳。病床で物の怪に憑かれ、枕元で (936)    僧侶が読む読経に「宮毘羅大将」とあるのを「我をくびる」と       読むと恐れて絶えいった。
天慶 5年 7.12 京都・西京七条二坊の多治比文子という娘の所に道真が現れ、  (942)    「昔世にありし時、。しばしば右近馬場に遊覧せり。彼の馬場        に向へば胸炎すこぶる薄らぎぬ。はやく彼処ら祠を構へ給へ」        ととの託宣がある。庶民にはどうにもならないため、仕方なく        自分の家のそばに小さな祠を建ててお祀りする。
天慶 6年 ★時平の三男敦忠死す。38歳。なお次男の顕忠だけは毎夜天神 (943) を拝していたため68歳の寿を保った。
天暦元年 近江国比良宮の禰宜の神良種(みわ・よしたね)の子供の太郎  (947)    丸にやはり同様の託宣があり、良種は右近馬場の朝日寺の最鎮        に相談、文子と寺主の満増らと協力して社を建てる。
天徳 3年   右大臣藤原師輔らが北野天満宮に宝殿増築。
(959) 永延元年   一条天皇が勅命で道真公を祭るお祭りを行い、宣命に「北野に  (987)    坐します天満宮天神」と述べた。これにより「北野天満宮」の        名前が正式のものとなる。
正暦 4年 5.20 道真に正一位左大臣を追贈。
(993) 閏10.20 道真に太政大臣を追想。
寛弘元年 一条天皇、北野天満宮に行幸。
(1004)

*----------------- 三善清行が道真に送った辞職勧告  某、昔遊学の次いで、ひそかに術数を習う。天道革命の運、君臣刻賊の期、  緯候の家、論を前に創め、開元の経、説を下に詳かにす、其の年紀を推す  に、なお掌を指すがごとし。
 伏して見るに明年辛酉にして、運変革にあたり、2月建卯まさに干戈を動  かすべし、凶に遭い禍に衝たる、未だ誰か是なるを知らずといへども、弩  を引き市を射れば、またまちに薄命に中るべし。
 伏して惟るに、尊閣は翰林より挺して槐位にまで超昇せらる。朝の寵栄、  道の光華、吉備公の外、また美をともにするもの無し、伏して冀うらくは  其の止足を知り、其の栄分を察せよ。

太宰府天満宮版・道真公伝

ここで少し、太宰府天満宮に伝わる伝説上の菅公の生涯をなぞってみましょう。

菅公は古代の技術集団・土師一族の傍系で代々学問を持って朝廷に仕える菅原家に生まれました。5歳で和歌を詠み10歳で漢詩を書くなど、小さい頃からその天才ぶりを発揮。33歳で文書博士になり、宇多天皇の厚い信任を受けて55歳で右大臣にまで登り詰めました。

やがて宇多天皇は退位し、醍醐天皇の時代になりますと、醍醐天皇は最初菅公を遠ざけようとしましたが、宇多上皇が天皇を説得。天皇も菅公を重用することを約束しました。

しかしそれをねたんだ藤原時平は菅公に無実の罪を着せ、ついには太宰府に左遷させてしまうのです。

落胆した菅公ですが、それでも朝廷への忠誠と日本の国を思う心は変わりませんでした。太宰府に流されてからもしばしば菅公は天拝山に登り、頂上に立って国家安泰を祈願したのです。やがて菅公がそのまま太宰府で亡くなりますと、味酒安行がその御遺体を太宰府政庁の東北の地に埋葬。ここに小さな廟を建てました。これが現在の太宰府天満宮です。


史実では実際醍醐天皇と藤原時平が手を組んで道真を陥れていますし、醍醐天皇は宇多上皇の言うことなど聞いていません。しかし太宰府に伝わる伝説では天皇を悪くいうのを避けて、時平ひとりを悪者にしています。また、天拝山のふもとには道真公がお参りしていたと伝わる小さな滝(というよりほとんど段差)があり、小さな祠が建っていますが、道真公はそんなに自由行動が許されていた訳ではないと思いますので、頂上までは登っていないかも知れません。

怨霊のその後の展開

菅原道真公の「怨霊」は日本史上最大のもの、と言われています。

その祟りによって藤原時平やその一派が命を落とし、清涼殿の落雷のショックで醍醐天皇が亡くなるなどの事態が展開しますが、その後起きた平将門の乱・藤原純友の乱も、道真公の怨霊が背景にあるとされました。

このため道真公は北野天満宮に祀られ、その子孫は充分な待遇を与えられます。特に孫の菅原文時(菅三品)は文章博士としてその才を振るいました。

死後も利用された菅公

歴史的に見た場合、こういった怨霊伝説が語られた意図はかなり明確であるようにも思われます。

つまりこの怨霊の噂によって時平の一派が追われ、代わって実権を握ったのは時平の弟の忠平でした。つまり、こういう伝説は忠平によってわざと広められた可能性はかなりあります。そして、そのあと藤原家の本流は忠平の子孫に受け継がれていきます。

道真公は失意の内に亡くなり、そのあとは静かに眠りたかったかも知れません。しかしそれは許されず怨霊に仕立て上げられていきます。

今、道真公を祀る全国の天神様(天満宮)では、道真公を学問の神様として祀っています。これは学問をもって無私の気持ちで朝廷に仕えた道真公にとっては幸せなことかも知れません。

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